「コミュニケーションは得意なんですよね」

こんなふうに言う人もいるし、表現はしなくても、「私はコミュニケーション得意。うまい」と思っている人もいる。まあ、何をもってコミュニケーション上手と言うのかは、定義や基準が曖昧なままでは、そもそも得意不得意の判定はできないわけだが…。

この記事で伝えたいこと

この記事で何を伝えたいか。それは「コミュニケーションはやはり難しい」ということ。それゆえに、謙虚に、根気強く、しっかりと伝えていく、あるいは受け取っていく必要があるということ。

息子がワンピースの映画を観てきた

私が土日とNLPの講座を受講しにいっている間に、私の息子たちは現在上映中の映画、劇場版『ONE PIECE STAMPEDE』を観にいってきたらしい。私が2年前くらいに大人買いしたONE PIECEに長男がドハマリ。最近なにかのきっかけで長男の(ただでさえ高かった)ONE PIECE熱が再燃。1週間くらい「観たい観たい観たい観たい観たい観たい観たい観たい」という息子の執念に、妻が根負けしたようだ。

興奮冷めやらぬ息子

千葉は夜中に台風15号が駆け抜けた。我が家の雨戸を激しく揺らし、その音で何度も目が冷めたわけで、朝も強風が吹き荒れ、電車がまったく動かない。さて、今日はどうやって長野まで行こうかと考えている最中、学校が休みになった息子は上機嫌で、売店にてお小遣いで買ったONE PIECEのメダルを自慢気に見せてくれると共に、土産話を始めた。

息子は一生懸命説明

・幻想を出せる魔術師がいて…

・火拳のエースが…

・サボが火拳を放つ

・船は逃げている
・火柱が2本立って、船は逃げることができた
・サニー号とサマー号が…

補足

↑これが息子の説明で私の中に残っているキーワード。すでに聴いた時から9時間ほど経っている。息子の説明はもっとストーリーがありもっと上手だったし、そのときはもう少し頭の中でも描写できた。

息子が捉えた世界 〜伝え手の頭の中にあること〜

映画なので、息子は視覚と聴覚を使い、映画を捉えた。すべての場面を記憶しているかどうかは不明だが、何れにせよ、映画の映像(動画・静止画)、セリフ、音、声を記憶として残す。

捉えた世界を表に出す 〜伝え手が頭にあることを表現〜

人に説明するときは、自分の中で捉えている世界。映像であるもの、音であるものを言語化しなければならない。映画の中では、描写に説明が入らない。つまり言葉で説明されるわけではない。例えば、ルフィが肉を食っているシーンがあるとして、ナレーターが「ルフィーが肉を食べております」って言わない。サボが火拳を出したら、「おーっと、サボが火拳を出しました〜!!」って言わない。映像や音声で何が起きているのかを把握し、それがそのまま記憶されていく。

その描写を自分なりの言葉・語彙・論理構成で説明をしていく。

すべて説明してもらうと、当然ながら、映画の時間(101分)では終わらない。彼のなかで特に印象に残っているひとつの場面のストーリーを話してくれたわけだ。

彼のイメージは明確

伝えてのイメージは明確だ。特に自分にとって重要な情報をインパクトを持って鮮明に記憶されている。息子が語るその場面については、おそらくかなり鮮明な映像の記憶と共に語られていたに違いない。

私の理解は… 〜受け手の理解〜

私も頑張った。彼が一生懸命の表現で、なんとか理解しようと。しかし、映画を観たことのない私は、自分の過去の経験や体験から描写するしかない。私は小学校から図画工作とか、美術とか、通信簿で3を超えたことがない。尾田先生の描く世界観を、私の頭の中で十分に描くことは奇跡に近い。

そうは言っても、息子の説明で私の頭の中には映像や音声を含めた場面(シーン)が浮かぶ。まあ、一致しようがそうでなかろうが、それはそれで楽しいのだが…。

一致しないコミュニケーション

では、映画を観ていない私が描いた頭の中の映像と、息子の中にあった、リアルに近い映像が一致していたか…。実際に映画を観てみないとわからないが、おそらく、全く違うものが描かれているだろう。細かい描写に至っては、ほとんどわからないわけだから…。しかし大枠は理解できている。うん、だいたいこんなものを描いていた。これは一致しているかもしれない。

コミュニケーションのさまざまな前提

一回説明すればわかるだろう。
相手が「わかった」と言えば、理解できているはずだ。
自分は完璧に説明できている。
一度聴いたことは忘れてはいけない
伝え手は全部を説明しているはずだ

私たちがコミュニケーションするとき、無意識の前提がたくさん働いている。「こうすべき」「こうすべきではない」「あいてはこう思っているはずだ」
しかしこういった前提は多くの場合、すでに崩れている。

コミュニケーションの伝え手は謙虚に

私はコミュニケーション上手。私の説明は完璧。
そうかもしれない。が、事実は、受け手によっては完璧だし、受け手によってはまったくもって不十分。
伝え手が興味を持つことは、「自分が伝えたことは完璧か否か」ではなく「自分の伝えたことがどうであったにせよ、相手にはどのように伝わったのか。相手はどのように受け取ったのか」ということ。関心を自分に向けるのではなく相手に向ける必要がある。

コミュニケーションの伝え手は根気強く

1回でパーフェクトにわかる関係なんてほとんどないという前提でコミュニケーションをしたほうがいい。相手を疑えという話ではない。相手は日々、さまざまな情報の中に埋もれながら、自分の責任を果たしているということを忘れてはいけない。
伝わらないならば何度でも。

コミュニケーションの受け手は正直に

受け手は「わかったフリ」が一番怖い。
「わかりました」「大丈夫です」という安易な返事は、後々、自分に思わぬトラブルを呼んでくる。

「わかりません」も相手を逆なでする。やめたほうがいい。

コミュニケーション「確認」のスキル

「わかりました」と安易に返事をするのではなく、自分が受け取ったもの、理解したものを相手に伝える。
「私が理解したことを説明していいですか?」と相手に許可を取れば、さらに丁寧。そうすることで誤解を最小限にできる。

まとめ

コミュニケーションには淡い期待が前提にある。これだけ言えばわかるだろう。最小限でわかってほしい、理解してほしい。忙しく生きている私たちは、一を聞いて十を知るということを希望しながら、短くて稚拙なコミュニケーションで人とのやりとりをしてしまったりしている。

組織で成果をつくるためには、コミュニケーションが欠かせない。コミュニケーションや、コミュニケーションを適切に取ったことによって生まれる信頼関係は、組織における最終目的地ではない。特にビジネス上の組織はかならず、何らかの使命に基づき、成果を生み出すことを目的にしているためだ。しかし、コミュニケーションの質と量は、多くの組織においてバランスを欠いている。もちろん能力の欠如という課題もある。人は自分がどのようなコミュニケーションをしているかに気づいていない。そして、自分のコミュニケーションの結果、どのような影響を与えているのかにも非常に鈍感だ。
そこで失っているもの、あるいは創れるはずのものをつくれずに過ごしているもの。あるかもしれないと我が身を振り返ることは、時に必要なことかもしれない。